栄光の背番号3
巨人軍・終身名誉監督の長嶋茂雄さんが亡くなられました。
自分は阪神ファンですが、応援するチームに関係なく、全てのプロ野球ファンから愛され、野球を愛した偉大な方でした。
現役時代は天覧試合でのサヨナラホームランなど「記録よりも記憶に残る選手」だったそうで、引退される時の「我が巨人軍は永久に不滅です」はまだ産まれていなかった自分でも知っている有名なセリフです。
ただ自分としてはやっぱり ” 長嶋監督 ” というイメージですね。
特に印象に残っているのは2000年です。
「V奪回」を至上命題とした巨人はシーズンオフに大補強を敢行。
工藤投手、メイ投手、江藤選手、マルティネス選手らをFA等で獲得。
そんな中、話題は広島カープ時代の江藤選手の背番号が当時長嶋監督が付けていた33番だったことになると…
「33番を譲って、僕はずっと閉まっていた ” 3番 ” をつけます!」ー
そして始まった春季キャンプでは、なかなかウィンドブレイカーを脱がずに背番号のお披露目を焦らし続けた長嶋監督…
ファンの期待がピークまで高まったとき、遂にその時が訪れましたー
ファンが待ち望んだ
『背番号 ” 3 ” のユニフォーム』…
後にも先にも背番号を披露するだけで、あんな大歓声が起こるのは長嶋監督しかいないでしょうね。
シーズンに入っても独走状態が続いた巨人ー
東京ドーム最終戦で江藤選手の同点満塁ホームラン、そして二岡選手のサヨナラホームランで幕を閉じたリーグ戦に続いては…
全プロ野球ファンが待ち望んだ、王監督率いるダイエーホークスとの『ON決戦』ー
最初の2戦はダイエーホークスが勝利するも、シーズン中もほとんど変えなかった打線のテコ入れを敢行ー
これが功を奏してそこから4連勝を飾った長嶋巨人はON決戦を制し、20世紀最後の日本一を達成するのでした。
2001年シーズンをもって監督を勇退することを決めた長嶋監督。
監督退任後は巨人だけでなく、プロ野球界全体を大切に思って動かれている印象がありました。
自分の印象に残っているのは退任直後のことです。
阪神を指揮していた野村監督が急遽退任することになり、阪神球団は野村監督の推薦もあり、前シーズンまで中日の監督だった星野仙一監督に監督就任を要請。
しかし、現役時代から中日一筋だった星野監督はこの要請を受諾するかどうかを悩みます。
そんな星野監督の背中を押してくれたのが長嶋監督でした。
「仙ちゃんに受けてほしい。」
「春になったら(当時の阪神のキャンプ地だった)安芸で仙ちゃんと一緒にコーヒーを飲みながら野球の話をしたいね~。」
そんな大先輩の後押しを受け、阪神タイガースの監督就任を決断した星野監督は2003年、阪神タイガースを18年ぶりのリーグ制覇に導いてくれました。
2004年のアテネ五輪に向け、日本代表監督となった長嶋監督でしたが…
そんな監督を病魔が襲います。
脳梗塞で倒れ、緊急搬送ー
懸命にリハビリをするもオリンピックでの指揮を断念ー
どうしようもないことではあるのですが、
世界のチームと戦う長嶋茂雄監督を見たかった…
というのは自分の正直な気持ちです。
長嶋監督の野球以外の魅力としては、その天真爛漫な性格からの様々な語録があります。
” サバ ” という字を聞かれた時に「魚へんに ” ブルー ” 」と発言されたことは後に息子の一茂さんがテレビで ” サバ ” について触れた時に共演者から 「たしかお父様が『魚へんに ” ブルー ” 』って言われてましたね。」 とイジられることもありました。
自分の個人的な話ですが、以前、進学校ではない学校に勤めていた時に問題演習で立教大学の入試問題を解くことがあって、生徒に少しでも興味を持ってもらおうと考えて長嶋監督の語録を話したことがあります。
その時は「『I live in Tokyo. 』を過去形にしなさい。という問題で『I live in Edo.』と書いた」ことを伝えました。
生徒に少しでも授業に興味を持たせてくれた長嶋監督には感謝しています。(^^ゞ
現役時代を知らない自分でも知っているほど、 ” 長嶋茂雄 ” さんは今の野球界にたくさん貢献された、偉大なスーパースターです。
この度の訃報に際しても、チームを問わず、本当にたくさんの現役選手・OB・ファンの方が色々な思い出を語ってくれていました。
もう今後もなかなかここまでの方は出てこられないでしょうね。
長嶋茂雄監督のご冥福を心よりお祈りいたします。
今の野球界を作って下さり、ありがとうございました。
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